小説を読むということ
多忙を極めた年末
忙しさという言い訳を自らに処方し完全にブログを放置していた
先日意気込んで始めた汚部屋改造計画も完全に頓挫中
中途半端に片付いた部屋を見渡して、この先どうしていこうかと途方に暮れる年の瀬
でも何もしていなかったわけではない
何をしていたかというと
そう
浴びるほど本を読んだ
浴びるほどなんていってしまうとちょっと大げさだけど・・・・
まあそこそこ・・・
いや!そこそことかいうとなんかちょっと急に自信ない人みたいだから
そうね
それなりに・・・
それなりに僕のペースで沢山の本を読んでみた
そして何を読んでいたかというとズバリ小説を沢山読んでいました
今までも読書が好きで週に1~2冊は必ず読んでいたけどそのほとんどはビジネス書やノンフィクション、ハウツー本の類であまり小説は読まなかった
なぜ小説などを読まなかったのかと言えば
「得るものがない」
そう思っていたから
誰かが作ったストーリーを時間をかけて読んだところで何も得るものはない
所詮時間をつぶすための娯楽に過ぎない
そう考えていた
ではなぜ読むようになったのかというと
それは「何かを好きになるためのスイッチを入りやすくするため」である
一体何を言っているんだお前は!!!と思われるかもしれないけれど・・・(笑)
しばし僕の悩みにお付き合いいただきたい
最近自分の感情の幅というか
起伏というか
そういう感情の揺れ動きのようなものが少なくなってきてしまったと感じるようになった
社会人になり早数年という歳月が流れ
仕事でもプライベートでも色んなことに触れ
大抵のことでは自分の心が揺れるようなことが無くなってしまった
もちろん仕事ではそういったメンタルの変化が良い影響を及ぼすこともある
商談の場や、製品のプレゼンテーションなどの場でも良い意味で動じなくなった
また、営業という仕事上、客先からのクレーム対応を強いられることも多々あるが
そういった場面でも落ち込んだり、びくびくするようなこともなくなった
ある意味でドライに、心を無にして物事に接することが出来るようになった
日々の業務の中、客先からの電話一本で状況が変わる
そんな営業職という仕事の性質から自分を守るため、知らず知らずのうちに僕はそんなスキルを身に着けたのかもしれない
そしてそんな自分の感情のスイッチをプライベートと仕事で切り替えるのは自分にとっては非常に難しいことなのかもしれないと最近になって思うようになった
仕事でドライになればなるほど私生活でもどこか冷めた自分がいる
仕事同様に合理さを求めて、私生活でも自分が触れるものが自分にとってどんなメリットがあるのかということばかり考えるようになってしまった
趣味の読書でもビジネス書やハウツー本など、要は自分の知識になるものばかり求めるようになった
子供のころはあれだけ小説も好きだったのに
ここ数年は全く読まなくなってしまったのだ
このまま仕事人間で生きていくのならそれでも良いのかもしれない
けれども僕はそうではない
意識高い系みたいに思われて嫌だけれどプライベートも充実させたいのだ
好きな人が出来て、その人と付き合って、いつしかその大切な人と一緒に暮らしたい
そう思っているのだ
そしてそのために、この童貞卒業への道程というブログを立ち上げ、日々奮闘している
まずは自分自身が魅力的な人間になる必要があると思い、自分の好きなこと、英語だったり読書だったりに没頭しているし
出会いを求めて英語サークルや勉強会にも参加するようになった
そして、ほかにも没頭できる何かを求め、自分を刺激する何かを探して、日々新しいことに挑戦するようになった
また、自分をアップデートするだけではなく、それと並行して女心を理解する必要があると感じ、日々どんな女性に対しても興味を持って接するようにしている
童貞卒業に向かって一見順調に進んでいるように思えるのだけど、実はその中で僕は自分が抱える一つの問題に直面するようになった
それは中々「好き」とか「面白そう」とか、そういう感情を揺さぶられるような自分になることが出来ないということだ
要は誰と話しても、何かをしてみても、あまり感情が揺れることなく
どこか冷めてしまっている自分がいるという問題に気づいたのだ
最初はいろんな物事に触れれば自分が没頭できる何かが見つかるだろうし、
沢山の女性と話せばそのうち自分が好きになる人が見つかるだろうと思っていた
でもどうやらそうではなさそうだ
この先いくら魅力的な物事や人と出会えても
肝心の自分がその魅力に気づかなくては意味がない
そして、この何かを「好き」になるためにはどうすればよいのだろうと考えるようになった
自分の好きな何かを見つけるためには、そして誰か人を好きになるには、その対象に向かって興味・関心・好奇心をもって接することが大事だと思っていて
その興味・関心を抱くためのスイッチとなるものが必要だと思っている
要は趣味だったら「これ面白そう!」とか
男女の仲だったら「この人のことをもっと知りたい!」とか
そういったスイッチを入れる原動力となるものが必要だと思う
そして僕は「感受性の豊かさ」こそがそのスイッチの原動力なのだと最近思うようになった
何かに共感したり、何かに興味を示したり、自分が触れる何かに対して自分の心を揺らすことが出来る、そんな感受性豊かな自分になりたい
日々の生活の中で、自分の目の前には他の人と同様にいろんな物事が流れていて、それをどう受け取るかは自分次第なのだから
例えば昔話で有名な「桃太郎」
川で洗濯をしていたおばあさんのもとへ、川上からどんぶらこどんぶらこと桃が流れてくる
その桃に戸惑うことなく躊躇することなく「いいお土産になりそうだ」という理由だけで家に持ち帰ったおばあさん
昔話・桃太郎はこのおばあさんが桃を持ち帰るところから全てが始まるのだ
でも今のままの冷めた僕だったら、目の前に桃が流れてきても
「ああ・・桃か・・・川に浸った桃なんて汚そうだ・・・」
なんて思って静かに流れる桃を見送ってしまうだろう
桃太郎に出会えるおばあさんと、何にも出会えない自分
目の前で起こっていることは一緒でもそれに対する受け止め方や行動の起こし方は全然違う
僕はこのおばあさんのようにこの桃に飛びつけるような自分になりたい
「おおー美味しそうな桃だ!!」でも良いし
「川に浸った桃の中身ってどうなっているんだろう?」でも良いし
理由なんてなんでも良いから、何かしらの自分が持つ感受性の一部が刺激され
桃に飛びつけるような自分でありたい
そして話は長くなってしまったが、この感受性の豊かさを高めるため、僕は今小説をむさぼるように読んでいるのだ
小説を読んでいると沢山のキャラクターやシチュエーションに出会う
そしていつしかストーリーに没頭し、登場人物と同じように喜んだり、悲しんだり、いつしか一喜一憂するようになる
そしてその中で、その登場人物の気持ちに寄り添い「共感する力」を養うことが出来るんじゃないかなと感じている
そしてこの「共感する力」こそが「相手の気持ちを考える力」であり「感受性の豊かさ」につながるのではないかなと思っている
まるで自分自身が登場人物であるかのように、感情を起伏させ、気持ちを揺れ動かすような体験をすることが今の僕には必要なのだ
今までの冷めた自分とおさらばし、自分が触れるもの、出会う人に一喜一憂して、自分の心を揺れ動かして、それが何かを好きになったり興味を持ったりするきっかけになったらいいな
そしていつか桃太郎のおばあさんのように、なんにでも興味をもって飛び込んでいけるような人間になりたい
ふう・・・さて、本でも読もう!
※一度このエントリーを消してしまったので再アップしました。